前回は短文だったので、その続きを書く。
人にとって親や仲間(友人や同僚・上司など)との関係は、確かに重要かもしれません。しかし、発想が逆になってしまうと本末転倒になってしまう。つまり、親や仲間だから重要なのではなくて、自分にとって本当に必要だと思える人こそ大事にしなければならないのだと思う。もちろん、それは自分勝手に自分にとって都合のよい人とだけ付き合えばよいという話ではなく、単に家族だから一番重要な人間関係であると決めつけてしまうのはもったいないことだと思う。
下重暁子さんの本が売れているということは、やっぱり家族というしがらみに縛られてどうしようかと思い悩んでいる人が多くいらっしゃるということだろうか。私は30歳近くまで親元にいたので偉そうなことは言えないが、本来子供は成人したら親元を離れて自立すべきであると思う。親は子離れするべきである。昨今、子供の大学の入学式や卒業式にまで親が出席するそうだが(ましてや祖父母まで)、私には信じられない。いつまでもたれ合うのか、そんなことをしていたらいつまでたっても子供は自立できないではないか。自然界の動物だって子供が餌を自分でとれるようになるまではサポートするが、その後は親は子供から離れていく。それが、自然の摂理だ。
LINEは若い人たちにとっては当たり前のツールらしい。会話の履歴が吹き出しになって残るので、いつ誰が何を言ったかがいつでも確認できる。それが、仲間内で問題になることがあるらしい。何でも、「Aさん、君がBさんに言ったあの言葉は良くないよ。(「きもい」とか言うのだろうか?私にはわからないが)」と一斉に批判の対象となり、仲間外れになることもあるそうだ。それが怖いから、常に周りに気を使って批判の対象にならないようにする、なんてことをTVのある番組のコメンテーターが言っていたが、そもそも画面での会話でしかない世界でそんな仲間たちの顔色を窺っていること自体が、無意味だ。そんなバーチャルの世界で、本当の人付き合いなどできるはずはないと私は思う。そして、むやみに仲間を大事にすることこそ自分の個性がまるでなく、なんのためにそんな仲間たちと仲良くやろうとしているのかを考え直さなければいけないのではないだろうか。自分の意見をしっかり持ち、面と向かって批判してくるものに対してのみ反論すべきである。そんな中で、本物の友人を見つけられるのではないだろうか。
先日、岩手の中学生がいじめで自殺をしたそうだ。それを取り上げたTV番組の中で被害者の親の責任を問う場面があった。つまり、親が子供の被害を防げたのではないか、ということだったが、私が最も驚いたのは、いわゆるママ友(PTAの主婦仲間のことだろう)仲間の間で自分の子どもがいじめに遭っていることを告げたことにより、その告白した主婦がママ友仲間から仲間外れにされ挙句の果てに自殺してしまったケースがあったそうだ。これこそがまさに仲間第一の発想であり、問題を解決するために必要な自分の意見やアドバイスしてくれる本当に必要な友人という発想が完全に欠如されてしまったケースであると思う。
私は、家族や仲間というカテゴリーだけでその関係を大事にする発想をかなり前から止めている。お互いに独立した個人であり、それぞれの生き方や個性を尊重して生きていくべきである。だから、家族であるからといって定期的に連絡を取ることもないし、相手方からの連絡も望まない。友人は自分が付き合い続けたいと思う人とのみ付き合っている。ただ、どんなに仲の良い友人同士でも、一定の節度が必要だと私は思っている。お互いに忙しい身であるからやたらに連絡はしないが、どちらかが会いたくなった時に連絡する。そんな、微妙な距離感が大切ではないだろうか。
結局、人間最後は自分一人である。何を決めるのも自分一人の判断、死ぬ時も一人。もちろん、事を運ぶには誰か他人のお世話にならなければならないのであるが、少なくとも他人に頼り過ぎず自分で物事を判断するという心構えはしっかり持って生きたいと思う。なんて所詮、偉そうに言ったところで人間なんてちっぽけなものだと思うが・・・。